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(無題)

 投稿者:よろずや果物店  投稿日:2015年 9月18日(金)14時11分23秒
  歌う果物屋さん:
安心しました。 やはりお忙しかったんですね。
11月に帰国します。
新店舗かならず伺いますね。
楽しみです。
 
 

書き込み、少しサボります

 投稿者:歌う果物屋  投稿日:2015年 9月17日(木)22時12分22秒
  ■よろずや果物店さんへ
書き込みサボっています。
すみません。
新店舗は、11月頃開店になりそうです。
「思い出短歌」もその頃に出版予定です。
「大里・思い出館」には、短歌と写真を展示しようと思っています。
みんなで昭和の歌を歌えるライヴステージもと考えています
あれやこれやと不安と期待で、楽しみな毎日です。

「 見つかると分かっていても押入れに もういいよと言い 息を潜める 」

「 甘陣でガラスケースのお菓子買う スコップで取り 量りに乗せる 」

「 駄菓子屋のバクダンキャンデー口銜え 裏の空き地でらんちん弾いた 」

「 三本立て 途中で入って最後観て 全巻終わり 最初の方観る 」
 

(無題)

 投稿者:よろずや果物店  投稿日:2015年 9月17日(木)15時15分20秒
  7月4日から歌う果物屋さんが 投稿されていないのですが、どうされたんでしょうか?
少し心配です。
短歌を楽しみにしています。
 

(無題)

 投稿者:よろずや果物店  投稿日:2015年 9月17日(木)14時44分10秒
  山形さん:
商店街を出られるというのは門司の商店街から 原町へ行かれるのですか?
大里/思い出館 いいですね。
手作りのジャムに昭和の門司。是非是非 そのような空間ができるといいですね。
門司に里帰りした時に 立ち寄れる場所が増えます。
私は小さい頃は遊び場が 市場だったので 活気のなくなってしまった
今の市場を見ると 寂しくなります。
大里近辺から 子供達がいなくなったのも理由の一つですが。
昭和の子供達は遊び方が 上手だったと思います。

遊び方が上手だったと思います。
 

思い出と言う道楽ですが・・

 投稿者:山形  投稿日:2015年 8月24日(月)16時21分23秒
  ■今昔物語さん、よろずや果物店さんへ
すみません、レスもつけなくて。
やっと、店の移転のめどがたって、10月頃には商店街を出て、原町の方へ引っ越します。
新しい店をどうしようかと思案中なんですが、ジャムとかの販売と同時に「大里・思い出館」みたいなものにしたいなと考えています。
家内と喧嘩しながらも、そんな情報発信基地みたいな店にできればいいのですが。

盆休みに、八女と大牟田に行ってきました。
観光案内所で「昭和が感じる場所を教えてください」と訊ねると、市場がある場所を教えてくれました。
戦後、境内に闇市がたち、それが市場になったところで、現在はどこの市場もそうですが、ここも空き店舗ばかりです。
けれど、数店舗、その古さを利用した店がオープンしていました。
自分は商店街を出て行くというのに、その店の明かりを見て、何かほっとさせられるものがありました。

 

(無題)

 投稿者:よろずや果物店  投稿日:2015年 8月24日(月)09時55分4秒
  今昔物語さんへ:
ご説明ありがとうございました。
三両の電車があったとはしりませんでした。
水害は お話しか聞いたことがありませんでしたが 小倉にまで被害があったんですね。
門司のみだと思っていました。
貴重なお写真ありがとうございました。

歌う果物屋さんへ:
私は久しぶりに このサイトを見たのですが書き込みをアップされていないので
ちょっと心配しています。
お元気ですか?
お仕事がお忙しいだけならいんですが 体に気をつけられて暑い夏をお過ごし下さい。




 

昭和28年・その4

 投稿者:今昔物語  投稿日:2015年 7月23日(木)07時18分45秒
  ♪歌う果物屋さんへ
短歌4も昔の大里を思い出しながら拝見しました。
今の大里から無くなってしまった風景を思い出しています。

♪よろずや果物屋さんへ
水害の写真ですが延命寺のトンネルは手向山トンネルです。
列車が横倒しになっているように見えますが、3両停止している
西鉄電車で上が国鉄の線路、その上が関門海峡です。
追加説明を含め写真Upします。
1枚目が再投稿列車が横倒しになっているように見える写真
2枚目が1枚目と同じ場所で夜に復旧作業をしている写真
左に止まっている3両の電車が見えると思います
3枚目は毎日新聞からの写真で玉屋の店内です。
 

(無題)

 投稿者:よろずや果物店  投稿日:2015年 7月22日(水)17時04分4秒
  歌う果物屋さんへ:

門司ネタ短歌 最高です。
真夜、一人でゲラゲラ笑ったり、あ~こんなこともあったなーって懐かしがってため息をついたり
これからも アップしてください。  一文字一語 とても暖かい気持ちになれます。
義理の母親が先日 脳卒中で倒れ あーまた 門司への里帰りが伸びてしまうのかな???
としょぼんとなっていました。

ところで 水害の写真ですが あの延命寺のトンネルは手向山のトンネルですか?
それから 列車が横倒しになっている 上の方の景色なんですが あれは一体海なんでしょうか?それとも
倒れている側が(下)海なんでしょうか?
 

思い出短歌・その4

 投稿者:歌う果物屋  投稿日:2015年 7月14日(火)20時42分38秒
  ■今昔物語さんへ
写真、ありがとうございます。
子供にとって、玉屋はイマイチでしたね。
中学になると、井筒屋の後は東映会館でした。

■よろずや果物店さんへ
短歌作り、もうすぐ400首になります。
「本を作るぞ」と言う励みになります。
ありがとうございます。
門司ネタ短歌を少しアップします。

「 牛小屋と塩素が臭う大里プール 皆そろって 「シェー」して飛び込む 」

「 若草でアップルジュース買って飲む 若大将とゴジラ観ながら 」

「 ドッツンは給食を食べてベランダで ドッチボールが四方に飛び交う 」

「 柳小 展望室から海を見て 潜水艦が通ると歓声 」

「 給食で コーヒーミルク出た時は 少しはましと有難く飲む 」

「 柳西の近くにあった駄菓子屋で ベビーコーラを飲んで帰る 」

「 歳末の大売出しの賞品は カラーテレビにハワイ旅行 」

「 門司弁は標準語だと思ってた 「ばい」とか「と」とか おれだん言わんちゃ 」

「 ストーブにアルマイトのお弁当 白いお庭で園児雪投げ 」

「 夏服のブラジャーの紐透けて見え 後ろの席の男子冷やかす 」
 

(無題)

 投稿者:よろずや果物店  投稿日:2015年 7月13日(月)16時30分0秒
  歌う果物屋さんへ
短歌、最高です。 本当に懐かしいです。
読んでると微笑んでしまいます。
前に歌う果物屋さんが言われた通り 私にとっての門司はとても楽しい 活気のある昭和30年代から40年代までの
門司です。
 

昭和28年・その3

 投稿者:今昔物語  投稿日:2015年 7月11日(土)13時19分34秒
  ♪歌う果物屋さんへ
第15回横町の芸人達ライブPart2ご苦労様でした
友人が参加しており、とても楽しかったと言っていました!!
短歌を拝見して当時の紙芝居や駄菓子屋などを思い出しています。
デパートの食堂は当時の憧れでした、きれいな服に着替えて行きました。
自分なりにランクをつけると No1:井筒屋 No2:玉屋 No3:山城屋だった
ように思います。
昭和28年の水害の写真その3(小倉方面)をUpします
1枚目、2枚目が延命寺、3枚目が大門

 

思い出短歌・その3

 投稿者:歌う果物屋  投稿日:2015年 7月 8日(水)22時03分50秒
  ■今昔物語さんへ
またまた、写真、ありがとうございます。
3枚目の木造の電柱は、中山材木店を思い出します。

■帯田町さんへ
私信です。
ありがとうございました。
ユニフォームには吃驚しました。

「 蛸のない蛸焼き食べて安上がり 店出る子らの歯茎に青海苔 」

「 水飴を練りながら見る紙芝居 クイズタイムでスルメが当たる 」

「 付録だけ別売りで買う貸本屋 店主が日付 ノートに記す 」

「 喉自慢 小鹿のバンビ歌ったが 残念賞の鉛筆のみ 」

「 不老園 三角野球で喉渇き 蛇口回して水道水飲む 」

「 パコダ見て 門司港来た実感す 茶色の袈裟のビルマ僧侶 」

「 海中を眺め歩くと信じてた タイルの壁の関門トンネル 」

「 井筒屋のレストランにてカレー食べ 紙ナプキンで品良く拭う 」

「 パッチンやランチン遊びの強い奴 それが僕らのボスの条件 」

「 入学し 初遠足は手向山 六年生に手を引かれ行く 」
 

昭和28年・その2

 投稿者:今昔物語  投稿日:2015年 7月 8日(水)20時44分37秒
  ♪歌う果物屋さんへ
懐かしい短歌ありがとうございます。
魚町のヤマハ、小倉城のジェットコースター、月世界、
下関水族館前の長府の遊園地、和布刈の塩水プールなど
目を閉じると昔の風景が思い出されます。
当時魚町電停前に揚子江と言う中華料理屋があったように
思います。小学生の頃に父の給料日の翌日に家族揃って
食べた中華饅頭がとても美味しかった思い出があります。
昭和28年の水害の写真、その2Upします
1枚目2枚目は門司港の栄町、3枚目は小森江です
 

思い出短歌・その2

 投稿者:歌う果物屋  投稿日:2015年 7月 5日(日)09時16分19秒
編集済
  ■今昔物語さんへ
3枚とも初めて見る写真で、感激しています。
ありがとうございました。

「 門司駅は すごい駅だと思ってた 洗面台に 8番ホーム 」

「 ガサガサの母の手が好き痒い時 今度は右と背中搔かせる 」

「 寝苦しい 蚊帳で寝転ぶ その度に 母が起きては内輪で扇ぐ 」

「 砂津出て 月世界の丸い屋根 もうすぐ小倉 ビル並ぶ街 」

「 小倉城 ジェットコースター 君と乗る 並んで座り それもドキドキ 」

「 魚町のヤマハに楽譜買いに行く そんな理由で彼女を誘う 」

「 水族館 出た後すぐにスリラーカー ビックリハウスと長府で涼む 」

「 「幽霊が!」 話の途中 後ろ指す 女の子たち「キャー」と寄り添う 」

「 競輪の開催日を横につけ 西鉄電車が駅前通る 」

「 塩水の冷たいプールで一泳ぎ 上がってすする 温かうどん 」

「 材木の隙間にあった秘密基地 箱に隠した 駄菓子とビー玉 」

「 ソノシート テレビと違い音が良い アトムの声に違和感覚える 」

「 デパートも結婚式も葬式も 学生服が正装だった 」

「 夜遅く 戸ノ上通り帰宅する 赤い提灯 金ちゃんラーメン 」

「 扇風機に向かって歌う夜空の星 エコーみたいで上手く聞こえる 」

「 とみやまで 車輪を買って板に付け 後ろで押して自動車遊び 」

「 ワシントン広場の夜は更け踊ったが 君まで順番回らずしょげる 」
 

昭和28年

 投稿者:今昔物語  投稿日:2015年 7月 4日(土)17時37分4秒
  ♪歌う果物屋さんへ
思い出短歌の拝見して昭和30年代の大里を思い出し笑ったり懐かしんだりできました。
ありがとうございました!!!
6月28日の第15回横町の芸人達ライブ(ビア・パティー)Part1に友人が参加していて
とても楽しかったと連絡がありました。

友人から小倉の魚町アーケードが取り壊されているとの連絡がありました。
魚町も柳町銀天街のようになるのでしょうか????
また思い出の場所が一つ消えてしまいます!!!!

梅雨の時期になると両親から聞いた昭和28年の大水害を思い出します。
水害の写真Part1をUpします
1枚目・2枚目は白木崎、3枚目は門司駅です
 

思い出短歌

 投稿者:歌う果物屋  投稿日:2015年 7月 1日(水)17時13分2秒
編集済
  柳西中学校の同窓生・寺井順一君の薦めで3年前から短歌作りをしています。
最近、「思い出短歌」と言うのもありかなと、作ってみました。

「 日々飽きず 六虫ばかりやっていた 金もかからず ボール一つで 」

「 風呂敷を背中に広げて飛び降りる スーパーマンの正体は僕 」

「 競輪の新聞を売るおばちゃんと ジャンパーが行く不老町 」

「 逆上がり 何度やってもできなくて バタンバタンと両足落とす 」

「 バスハイク 幸せなら手を叩こう 身振り手振りで ガイドと歌う 」

「 門司駅の地下道入る証明書 本町に住む友を羨む 」

「 金出せと 突き付けられた肥後の守 ビビっていたが 持ち合わせなし 」

「 チャンネルのネジが擦り切れ回らない 外して棒をペンチで回す 」

「 柳御所 社務所に向かい屋根正月 磔されて太もも痛い 」

「 門司駅の伝言板にチョーク取り アイラヴユーと名前まで書く 」

「 デッキからホームに飛び降り こける友 「停まるまでは」とアナウンス流れる 」

写真は、寺井君の新刊と8月11日に長崎ブリックホールで上演される「天主堂物語」。
右が建築士役の寺井君です。
 

正太郎マーチ

 投稿者:歌う果物屋  投稿日:2015年 6月28日(日)12時28分43秒
  ■今昔物語さんへ
絵葉書のアップ、ありがとうございます。
日本製粉にお勤めだったお客さんの話では、昭和28年の大水害のときに、3号線が不通になったので、この船に乗って下関経由で門司港の自宅に帰られたそうです。
それから原爆ですが、当日、広島の天気が悪ければ、第二候補地の小倉に落とされていました。
八幡製鉄所もそうなのですが、お客さんの話では、門司税関も空襲が始まる前にコールタールを燃やして煙幕を張っていたそうです。

さて、今から門司倶楽部で恒例の「門司・横丁の芸人達ライヴ」で歌います。
今まで、オリジナルばかりだったんですが、中間で、みんなに喜んでもらえるかなーと、僕らの世代のアニメ「鉄腕アトム」「宇宙少年ソラン」「スーパージェッター」「エイトマン」「鉄人28号」「正太郎のマーチ」をメロディーで短く歌ってみようと思っています。
しらけたら・・・と不安ですが。
行ってきまーーす。

 

絵葉書

 投稿者:今昔物語  投稿日:2015年 6月28日(日)11時29分57秒
  ひさしぶりに掲示板を開き皆様の書き込みを拝見しています。
丹沢さんの書き込みが拝見できなくなったのが、とても寂しく残念です!!!

今年の門司港祭りは門司港地区、大里地区共にパレードが行われ楽しかったと
門司在住の友人から連絡があり、昭和30年代の祭りを思い出し懐かしんでいました。

♪歌う果物屋さんへ
最初の空襲が北九州だと初めて知りました。現在広島に住んでいますが2回目の
原爆投下目標が北九州だったことを最近知りました。当日天気が良ければ北九州に
投下され投下後の広島と同じような惨状が展開したのですね。

昔の絵葉書が見つかったのでUpします。
1枚目は猿喰城、2枚目は関門鉄道トンネルが出来る前に貨物車を船で運んでいた
小森江地区の写真と丹沢さんが通われた門司商業高校の校旗です。3枚目は厳流島。
 

遠きにありて・・なんですかね

 投稿者:歌う果物屋  投稿日:2015年 6月22日(月)17時01分5秒
  ■柳西流れ星さんへ
日本で最初の空襲が北九州です。
しかも、大里に爆弾を落とされています。
現在の黄金町と戸ノ上神社です。
当店のお客さんの家と、もう一人のお客さんの親戚の家などが被害に遭われました。
Sさんのお宅では三人、もう一人のお客さんの親戚の方が二人、まだ亡くなられた方がおられるのですが、行った方の話では、一階に血が散乱してて二階に上がって見ると吹き飛ばされた家族の方二人が亡くなっていたそうです。
それから、空襲警報のサイレンですが、各学校にあったのは半鐘で、消防団の方々が空襲警報の後で叩いていたようです。
また、間違っているか心配ですが、そう聞きました。
大里でのサイレンは、ビール工場内の「白っぽいレンガ倉庫の上に」設置されていたということです。
他に、現在も残っていると防火用水の場所を教えてくれましたので、行ってみようと思っています。
写真は、現在の柳町での防火演習の時のものです。
お客さんのK谷さんから見せてもらったものです。

■よろずや果物店さんへ
変わっていく人や、町の風景に、だんだんなじめなくなってきました。
よろずや果物店さんの「門司」は、僕の暮らしている門司よりも楽しいのかも知れませんね。
 

(無題)

 投稿者:よろずや果物店  投稿日:2015年 6月22日(月)15時59分53秒
  故郷を遠く離れて住んでいると 丹沢さんや柳西流星さんの書き込みに、あー私だけじゃなく
同じように思われているんだなーと、微笑んでいました。
親がまだ生きている頃は 親の死に目に会えるのだろうか?? っと海外生活をしている
日本人同士で よく話したものですが 今は自分が何処で終末を迎えるのだろうか??
こちらで 日本人のご老人の方のお世話をする機会があり 考えさせられます。

以前チベットの大乗仏教のことをナショナルジオグラフィックという私の大すぎな番組で見ました。
それは亡くなられた直後の人の魂が チベットのあの険しい山脈や自分の村を縫うように駆け巡るのです。
あーきっと 最終の場所がどこであろうと 私は戸の上山を駆け巡って 柳小学校~中央市場~柳西中学~戸の上神社~門司駅あたりを 風のようにかけていくんだろうな。
そうしたいなぁーって 思いました。
私事の単純な話を書き込みに投稿してすみません。
 

週休2日制

 投稿者:柳西流れ星  投稿日:2015年 6月21日(日)12時53分8秒
  歌う果物屋さん
偶然、私も門司空襲を調べていました。神鋼門司工場一帯も標的でした、というよりあの日、北九州上空に厚い雲がなかったら小倉だったとされていますね。今回はサイレン。戦後の再建工場ですから空襲警報用でなく、始業就業合図や地域にも有用な時計代わりだったと聞きました。関東工場のサイレンはそうだった、と。工場内は騒音だらけで構内放送では聞き取れませんからサイレンです。やがて経済成長で工場近くまで住宅が建ち、個人や公共場所に時計が行きわたってくるとサイレンは苦情の的で廃止されます。子供の頃、大里でお昼の合図に「ドン」という音が鳴りませんでしたか?記憶の間違いかも。
丹沢さんの時代は土曜も出勤、私の時代は月1で土曜が半日(=半ドン)から休日になりました。しかし外資系工場が週二日実施となって、日本の鉄鋼業神鋼もその方向へ向かいました。完全週二日になった時、どう過ごすか困ったことも。歌う果物屋さんのような小売業は好きに休めず大変だったと思います。

上柳2区さん
丹沢さん終焉の地・秦野には水無川が流れ、大里にも同名の川、不思議です。大里で見たり籠に入れたのは、すべて平家蛍でした。初めて源氏蛍を手に取ったのがキャンプに行った秦野のタバコ畑の奥にある小川でした。こちらの水無川は名前を変えて、加山雄三やサザンの隣街を過ぎ相模湾へ。
 

神戸製鋼所のラッパ

 投稿者:歌う果物屋  投稿日:2015年 6月18日(木)14時47分25秒
  ■宗大郎さんへ
僕が3年の時は7クラス、1年生も7クラス。
けど、新聞を見ると2年生は8クラスだったんですね。

■上柳2区さん、柳西流れ星さんへ
お二人の書き込み、コメントできないのですが、楽しく読んでおります。
どうぞ、この掲示板をご利用下さい。

蛍は、僕が子供時代、戸ノ上通りの町中?でも飛んでいました。
蚊帳をくぐって寝てた時代を思い出します。

それから、北九州の空襲について調べていると、警報のサイレンは各学校などに備え付けられていたのですが、小森江の神戸製鋼所にもありました。
今でも、入り口の屋根にラッパがあるのですが、「まさか、そのときのもの?」なんて想ってしまいます。
ご存知ではないでしようか。
 

昔懐かしいあの頃

 投稿者:上柳2区  投稿日:2015年 6月17日(水)23時17分44秒
   家の前の溝の草むらにどこから飛んできたのか、夜暗くなると蛍が1匹2匹・・・。

後ろから母が「へびの目と間違えないようにね」。 捕まえてきた蛍を蚊帳の中にそっと

放して喜んでいたあの日がありました。 雨が降ると傘をさして長靴履いて、カタツムリを

探しに近くの路地を歩き周り、溝の中に入らないようにと母が釘を刺す。

風が吹くと、道の真ん中で風の女王になったつもりでくるくる回り、何だか楽しくて

しょうがなかった。 鬱陶しい梅雨も、近所の子を集めて部屋の中を暗くして母が一つ目

小僧の話をして、内容はいつも一緒だけどドキドキして聞き入りました。

嫌だけど喜んでいるお百姓さんもいるし、お米は雨が降らんと実らんのよ・・・そんな

話を雨が降るたびに聞かされました。

昔不老公園で蛍の乱舞が観れました、赤腹のいたあの池の周りで。

 雨が降ってきた様子なのでこんなことを思い出しています。



 

8つ先輩

 投稿者:柳西流れ星  投稿日:2015年 6月17日(水)00時16分16秒
  上柳2区さま
丹沢さんは8つ先輩、私達の子供時代は兄弟姉妹5人前後はふつうでした。10歳離れていると、けんかもしないでしょうね。親代わりのような。兄弟が多い長男長女は、しっかりと働き手になって弟妹達の進学の面倒をみたものです。えらいなあ、おとなだなあと今でも頭が下がります。N山家のメンバー、私が1人誤認してるようなので、もう一度書き込みを読んでみます。しばらく法要など、ふとさびしくなるでしょうけれど、投手4番バッターのファイトで切り抜けてください。7月に秦野赤十字病院を通りますので風景撮れれば貼ります。みなさま、急な割り込みすみませんでした。
 

N山家兄妹そして弟たち

 投稿者:上柳2区  投稿日:2015年 6月14日(日)23時05分1秒
     柳西流れ星さん

 昭和13年生まれの丹沢、私は23年生まれ、弟二人(26年1月と28年4月生まれ)。

26年生まれの弟はサッカー部、釣りとマラソン(今は走っていないようです)。

28年生まれの一番下の弟は剣道部、この弟が今だにサーフィンやスキーをしています。

弟と同学年でしたらすぐ下の弟が、私が中3の時1年生でしたよ。 早生まれなので

25年生まれの方と同学年になりますね。

私は全く知りませんでしたが、二人共かなりやんちゃだったみたいです。

大人になってそれを聞いても、え~?という感じで信じられませんでした。

きょうだいの中ではやっぱり私が力関係は上で強かったみたいですが、やはり

男兄弟は何かあると頼りになります。









 

Nのきょうだい

 投稿者:柳西流れ星  投稿日:2015年 6月14日(日)01時29分33秒
  上柳2区さま
丹沢さまは7,8歳先輩ですね。秦野工場には昭和47年頃、銅合金のことで訪ねたことがありました。まだ、いろいろなことお訊きしたかったですね。お二人の書き込みを読ませていただき、丹沢さんの弟にN山君(私と柳西同学年。通称にいやん)がいて、上柳2区さんは私達が3年時の1年生のようです。にいやんは噂では柳小の番長とのことで警戒してましたが、本人と校庭で会って話したとき、さっぱりして好い奴じゃないかと肩透かし食らった思い出です。残念ながら同じ組になるとか部活でも重なる機会はありませんでした。サーファーとは意外でした。掲示板を通して読んでみますと、丹沢さんは「自分なりによく生きた」とご満足であったのでは、と思えました。僭越ですが、ほんとうに御苦労さまでした。われら前に向かって歩んでいきます。
 

秦野での丹沢

 投稿者:上柳2区  投稿日:2015年 6月11日(木)15時49分36秒
     柳西流れ星さん

 昭和41年、門司工場から妻子を残して門司駅からブルートレインで単身赴任。

寮での生活だったようです。 1979年、イタリア・トリノ社との技術輸出成約に伴い

1ヶ月海外に行ったそうです。 秦野工場のOB会にも(コベルコマテリアル銅管秦野工場

OB会)出席していたようで、何枚も写真を残しています。

大里の実家を弟にと本人が決めていたようで、(周りは知りませんでしたが)、丹沢の麓

富士山を眺めることのできる秦野を終の住処と決め、家を建て、畑を借りて収穫を楽しんだり

していましたが、大里への郷愁は募っていたようで、帰ってきては車で周り写真を撮りまくって

それをパソコンの中に収め、自分なりに楽しんでいたみたいです。

もしかして、柳西流れ星さんとは面識があるかも、ですね。

兄は私と10年違いの今年誕生日を迎えられていたら77歳でした。





 

丹沢さんを偲び

 投稿者:柳西流れ星  投稿日:2015年 6月10日(水)22時02分37秒
  宗太郎さん、歌う果物屋さん、話の流れに割り入ってすみません。
上柳2区さん、丹沢さんの赤十字病院とは10キロくらい離れた病院でした。門司ー秦野工場といえば神戸製鋼グループでしたか? 私の20代は神鋼でした。門司か長府工場に転勤したかったのですが違う事業部でしたから当時はまったく不可能でした。丹沢というハンドルネームが土地名ということを、もっと早く気付くべきでした。丹沢さんのような人たちが、命を削ってコツコツ働いていたのですね。視力も戻りつつありますので門司へ還ってみようかな。
 

丹沢麓で・・・

 投稿者:上柳2区  投稿日:2015年 6月 9日(火)23時43分35秒
     柳西流れ星さん

 駅前のホテルの窓から富士山を眺めたとき、ああ兄も幾度となくこの富士山と

丹沢の山並みから癒しを得ていたのかと、何度もシャッターをきりました。

柳西流れ星さんも奇遇ながら、近くにいらっしゃったのですね。

兄は赤十字病院でした。 春まだ寒さが残っている時期は、水無川辺りをカメラを

持ち風景等をいつも撮っていたようです。 身体の調子を見ながら。

門司の工場から、新たに工場を作る際、立ち上げに一から関わって、定年まで頑張りました。

 退院されて良かったですね。 主人は手術してから1年になります。

仕事はお断りしたけどもう一年ということで、まだ頑張ってくれています。

 時間の流れが早く感じるこのごろですが、この掲示板の皆様との触れ合いから得る心の

中の時計は、昔の柱時計の振り子の様に、なんだかゆっくりと流れていくような気がします。

皆様もお身体を大切に、そして楽しんで行きましょうね。

  
 

丹沢さん・・・・

 投稿者:柳西流れ星  投稿日:2015年 6月 9日(火)22時05分26秒
  上柳2区 さま
海外援助に出ていまして途中に病を得、昨年末に帰国。ごぶさたすみません。正月から春まで神奈川県の丹沢麓のリハビリ病院におりました。今は退院しています。上柳さんはご主人がご病気と記されておられていましたが間違いでしたらお詫びいたします。また、丹沢さんのことには驚き残念でなりませんでした。ひょっとしたら1カ月ほど丹沢さんとは数キロ近くにいたかもしれません。今正月、歩行訓練途中で撮った丹沢山系とその隣の富士です。ご冥福祈ります。お大事に。
 

(無題)

 投稿者:宗大郎  投稿日:2015年 6月 9日(火)15時54分7秒
  〈歌う果物屋さん〉
学校新聞の拡大版ありがとうございます。
当時の豆記者さん、漫画家さん、あどけなくて健気でしたね。
М先生へのインタビューもありました。Y先生の担任クラスの
特質も書かれてありました。「全然おもしろくないところが
なかなか面白い」という海水浴での注意喚起をテーマとした
漫画もありました。も一度あの頃に戻ってみたいです。
3年生になると、ガリ版から活字に変わったんでしたっけね?
なお、M、Yのご両人には、昨年の同期会でお会いしました。
(掲示板「柳西中1966」参照)
 

拡大しました

 投稿者:歌う果物屋  投稿日:2015年 6月 6日(土)13時54分11秒
  ■宗大郎さんへ
新聞記事を拡大しました。
漫画は縦に長く、うまくアップできませんでしたので、最後の一こまとコメントのみ。
 

(無題)

 投稿者:宗大郎  投稿日:2015年 6月 5日(金)17時04分21秒
  〈歌う果物屋さん〉
昔の学校新聞、とても面白そうなのですが、果物屋さんの漫画や
記事がよく読み取れないのが残念です。
先日、ふらっとお邪魔した「喫茶とれいん」で、コーヒーを頂き
ました。マスターとお話するうちに、ボクの伯父のことや会社の
こと、幼馴染みのことなど、色々憶えてくれていて、嬉しくもあ
り、とても懐かしい思いがしました。昔行きつけの酒店の次男坊
さんだったとは、つゆ存じませんでした。
 

昭和44年柳西中学校新聞

 投稿者:歌う果物屋  投稿日:2015年 6月 5日(金)14時17分40秒
  ■上柳2区さんへ
そうです、そうです、そう歌っていました。
ありがとうございます。
今月の終わりにライヴするので、歌の練習していたら、あの頃の歌を歌いたくなって「人生が二度あれば」なんて井上陽水の歌なども爪弾いていました。
すると、おかしさがこみ上げてきました。
「父は今年二月で・・・」と、僕らも、もう歌の主人公てはなく、年老いた両親なんですね。

同窓の元柳中学校新聞部О君から、当時の学校新聞が送られてきました。
 

さよなら三角

 投稿者:上柳2区  投稿日:2015年 6月 4日(木)15時47分51秒
     さよなら三角

さよなら三角 また来て四角

四角は豆腐 豆腐は白い

白いはうさぎ うさぎは跳ねる

跳ねるはカエル カエルは青い

青いは柳 柳は揺れる

揺れるは幽霊 幽霊は消える

消えるは電気 電気は光る

光るはオヤジのハゲ頭

若干記憶違いがあるかも。 先日弟達と久方ぶりに遠方まで2泊3日したのですが

一人はロマンスグレー、もうひとりは頭頂が寂しくなっていましたので、そのうち

光ってくるんでしょうね。 時の流れをしみじみと感じた次第。


 皆様へ

霊峰富士山がくっきりと見る事ができる丹沢の懐に抱かれ、光となっていつでも

故郷の大里を心置きなく満喫できるようになった兄は、いついつまでもこの掲示板の

皆様方を応援していることでしょう。
 

楽しみな柳西中学校・学校新聞の漫画

 投稿者:歌う果物屋  投稿日:2015年 6月 4日(木)13時46分40秒
  ■よろずや果物店さんへ
さよなら三角ですが、光るは親父の禿頭で終わったような気がします。
下は昭和44年度の北九州観光パンフレットに載っていたジェットコースターの写真です。
中央左端が乗り場で、上がって下った場所が前回のお客さんから頂いた写真に写っていたお堀に向かって突っ込むジェットコースターのレールです。
今でも、ガタンガタンとゆっくり上っていく音を思い出すと、緊張してしまいます。

■宗大郎さんへ
先週、定年して北九州に帰ってきた同窓と呑みました。
彼は、現在丸和の小倉側にあったかつき旅館の隣にすんでいました。
「岡田さん、有次さん・・・40年ぶりに歩いたけど、町はあまり変わっていないね」と話してくれました。
彼は、柳西中学時代、新聞部にいて、その学校新聞を持っているとのことで、今度、コピーしてくれるそうです。
それには、僕が描いた四こま漫画が載っています。
 

(無題)

 投稿者:宗大郎  投稿日:2015年 6月 3日(水)16時45分23秒
  丹沢さん、亡くなられたのですか。
この春には、お元気そうに 投稿されていましたのに。
これまで門司にまつわる色んな情報を教えていただきました。
ご冥福を心からお祈りします。ありがとう。 
 

(無題)

 投稿者:よろずや果物店  投稿日:2015年 6月 3日(水)16時10分53秒
  歌う果物屋さんへ:

跳ねるは カエルでしたっけ??
ところで このお城の前の写真ですが、多分 昭和30年代でしょうか??
とても懐かしいです。 中央市場の横の通りですよね。
活気がありましたね。

サーカスが若草パチンコの側にあったんですか。
志津の息子さんに メールで聞いてみます。
だんだん謎が解けてきますね。
 

さよなら三角、また来て四角

 投稿者:歌う果物屋  投稿日:2015年 6月 2日(火)15時30分25秒
  さよなら三角、また来て四角、四角は豆腐、豆腐は白い、白いはウサギ、ウサギは跳ねる・・・
後、何でしたっけ?
白いは幽霊、幽霊は怖いって歌ってたような気もします。
 

丹沢さん、ありがとうございました

 投稿者:歌う果物屋  投稿日:2015年 6月 1日(月)18時50分40秒
  ■よろず果物店さんへ
若草パチンコの芝居小屋なんですけど、その近くの広場で時々サーカスを催していたそうです。
それではないでしょうか?

■上柳2区さんへ
この掲示板、丹沢さんにはホントにお世話になりました。
ありがとうございました。
 

(無題)

 投稿者:よろずや果物店  投稿日:2015年 6月 1日(月)12時01分43秒
  上柳2区さんへ:
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
 

丹沢

 投稿者:上柳2区  投稿日:2015年 5月31日(日)20時46分16秒
     皆さまへ

 蛍の舞う大川べりを遊び場として育ち、思春期を戸の上山の麓で、テニスや機械いじりを

趣味として、後年無線のハムで全国に留まらず外国の方ともハム仲間として交友を育み、

(大村昆さんともハム仲間で、門司の和布刈でお会いしたそう)

転勤で遠方に住まいするようになってからは、帰省しては思い出の場所を色々と周り、

写真にとっては懐かしみながらそれを楽しみにしていました。

 又蛍の舞う季節になりましたが、昔の話や教えてもらう機会がとうとうなくなりました。

先日、訃報が届きました。 最後のお別れを済ませ帰ったばかりです。

亡くなる1週間前も弟たちと見舞いに行く事ができ会話ができ良かったです。

この掲示板を本当に楽しみにしていて、遠方に居ながら大里の諸々を知ることが出来

喜んでいましたので、成り代わりまして、有難う御座いました。

私はまだまだ楽しませていただきます。 今後もよろしくお願いしますね。





 

(無題)

 投稿者:よろずや果物店  投稿日:2015年 5月23日(土)12時53分34秒
  歌う果物屋さんへ:
”焼き鳥志津” の写真ありがとうございました。
いや~~~~ めちゃくちゃ懐かしいです。
 

(無題)

 投稿者:よろずや果物店  投稿日:2015年 5月22日(金)15時32分14秒
  歌う果物屋さんへ
ははは 志津の親父さんがサーカスをしていたかは 否ですが、
同級生の息子さんが言うには、幼い時に親戚の家へ行くと、
球乗りをしているおじさんがいたり 綱渡りをしてるおばさんがいたそうです。(笑)

柳町郵便局って?? ひょっとしたら戸の上通りの大里の電停近くにあった 小さな郵便局ですかね?
芝居小屋か~~。 あんなところにあったんですね。
両親が生きていれば色々なことが聞けたのに!! なんで昔のことをもっと話さなかったのかな?
っと悔やんでいます。
今度、門司に里帰りした時は 隣の柳生さんに色々と聞いてみます。
かなり昔の門司をご存知だと思います。

かすかな思い出ですが(多分、私が幼稚園の頃かそれ以前かも??)
若草パチンコの横の芝居小屋があったところに 旗がたくさん立っていて大きなマイクロバスが
横ずけしていた記憶があります。 あれは一体何だったんだろう??
っと昔を思い出しては不思議に思っていましたが もし芝居小屋だとしたら納得できます。
でも ちょっと時代が錯誤しているかもしれませんね。
 

サーカス小屋の少年

 投稿者:歌う果物屋  投稿日:2015年 5月18日(月)17時02分17秒
  ■よろずや果物店さんへ
若草映画館の場所が芝居小屋とは知りませんでした。
少し、調べてみようと思います。
柳町郵便局の裏にも小さな芝居小屋があったんですよ。
その跡地は、М病院の先生がダンスホールにしていました。
僕が小学校の時には、空き地になって、そこでよく遊んでいました。

金丸サーカスの情報、ありがとうございます。
志津の親父さんが、そんな経歴の持ち主だったと吃驚しました。
あの店の、閉めに食べる雑炊がとても美味しかったのが思い出されます。
前田組のご家族の思い出話の中に、サーカスの話がありました。
「大里の町でサーカス小屋から逃げ出し泣いてる子供を保護し、トンビの内に隠して連れ帰った話を父からよく聞かされました」
なんだか、志津の親父さんとダブってしまいます。
 

(無題)

 投稿者:よろずや果物店  投稿日:2015年 5月18日(月)16時31分48秒
  歌う果物屋さん:
昔の門司は 今と違い別世界ですね。
どの写真を見ても 活気が伝わってきます。

大正座かどうかはしりませんが 若草パチンコの横に映画館がありましたが その前は
芝居小屋だったと聞いています。 同級生のお母様が そこへよく芝居を観に行っていたそうです。

話は逸れますが、私の同級生のお父様が”焼き鳥志津”を営んでいたのですが、門司のサーカスの一座だったと言ってました。
金丸サーカス という名前だったそうですが、私は門司にサーカスが
あったのすら知りませんでした。
 

前田組

 投稿者:歌う果物屋  投稿日:2015年 5月15日(金)22時30分21秒
  ■よろずや果物店さんへ
競輪場ができて、不老通りが整備される以前のことです。
「門司駅前」に移ったころ、大里の電停も門司港側に少し移った時期があったそうです。

その大里電停の現在グリーンマンションがある場所に昭和の初めまで「大正座」と言う劇場がありました。
鈴木商店とともに製糖会社、ビール会社、製粉会社を建てた前田組のご家族の方の手記に「下関の弁天座、門司の稲荷座、小倉の常盤座にお芝居を見に行った」とあるのですが、大正座が記されていません。
回り舞台もあった大きな劇場でしたが、ちよっと気になります。
どんな役者さんがきて、どういう興行をやっていたのか資料があれば良いのですが・・・。
その前田組のご家族の方は、戸ノ上神社の海側にお住まいでした。
 

(無題)

 投稿者:よろずや果物店  投稿日:2015年 5月12日(火)15時47分13秒
  歌う果物屋さん:
こたつでマンガを読んでいる ちょっとした一瞬を撮られるくらいだから
本当に写真好きな義理のお父様だったんですね。
歌う果物屋さんの編集も流石だと思います。

不老公園の入り口が 野球場側だったとは知りませんでした。
野球場や競輪場ができる前の時代なのでしょうか?
 

不老公園前

 投稿者:歌う果物屋  投稿日:2015年 5月12日(火)10時37分39秒
  ■よろずや果物店さんへ
投稿している写真は、当家のものか、友人やお客さんからお預かりしたものです。
義父が写真と旅行が趣味でして、遺品を整理していたらすごい枚数のフィルムが出てきました。
その中から、話題に合いそうなものチョイスしてアップしています。
前回のコタツで漫画を読んでいる少女は、半世紀前の家内です。

西鉄電車の運転手だった方に伺ったのですが、門司駅が現在の場所に移る前は「門司駅前」ではなく「不老公園前」と言う電停があったそうです。
現在よりも小倉よりのパチンコ屋さんの付近です。
そこが何故「不老公園前」かと言うと、公園の入り口は不老通りではなく、野球場の方でした。
午後4時から7時までは、そこには停まらず大里から原町まで行く急行がありました。
 

(無題)

 投稿者:よろずや果物店  投稿日:2015年 5月11日(月)16時59分26秒
  歌う果物屋さんへ:
前から聞こうと思っていたのですか、投稿されている写真は歌う果物屋さんですか?
ちなみに 私もリボンから別冊マーガレットに夢中になりました。
 

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