門司・あの頃

町が、どんどん変わっていくけど、 心の中の門司風景を残しておきたい。 たまに、帰ってこれるように・・・

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全258件の内、新着の記事から50件ずつ表示します。 1  2  3  4  5  6  |  《前のページ |  次のページ》 

高校時代にボーリングが流行りました  投稿者:歌う果物屋  投稿日:2008年 7月25日(金)22時17分21秒
  ■りょうくんの母さんへ
実は、今日もマクワ瓜を食後に食べたんです。
美味しくて、あっと言うまに一個、お腹の中に入ってしまいました。
マクワ瓜、キャンベル、新世紀梨、青りんご、小玉西瓜・・・
もうすぐ、お盆です。

■宗大郎さんへ
戸ノ上山麓テーマパーク構想ですが、戦前の果物屋(株屋)の門田さんか、某政治家さんの発想でしたか、忘れてしまいました。
宝塚のような区域にしょうと、何かの本で読んだことがあります。

御山町にあった駄菓子屋さんですが、お客さんに尋ねると、確かに小さな店があったと話してくれました。
それとは別なのでしょうが、その下の中大門商店街(みずき通り商店街)に「石飛」「植野山」と言う駄菓子屋さんが二軒並びであったそうです。
その中大門商店街の不老通り寄り、現一番館付近にローラースケート場があったんですね。
僕は宗大郎さんと同年代だから、あまり覚えがないのですが、団塊の世代の方々は、よくご存じだと思います。
流行っていたんですね。
アイススケートは、高校時代に小倉でやってましたね。
二十歳過ぎてからは、力丸ダムや長府に行ってました。
ボーリングは、東口の後にユニードになった場所。
そこは、それ以前は、西日本製糖の幹部社宅だったんですね。
 

よろしくお願いします!  投稿者:宗大郎  投稿日:2008年 7月25日(金)17時09分3秒
  夏の同窓会シーズンになりましたね〜。
おおかた40年ぶりの懐かしい友が来るというので、
今回の門司の同窓会、顔を出させてもらおうかな〜〜なんて
思い悩んでいる今日このごろです。

その昔、戸の上神社付近にテーマパーク構想があったのですか?
いつごろ、どんな構想だったんでしょう。

遅れ馳せながら、簡単に自己紹介。
昭和20年代の末、大里で産声をあげました。男の子。
小中学校時代の行動範囲は、下手では
高田町⇔帯田町⇔不老町⇔的場町⇔御山町⇔弓場町⇔北方町⇔戸ノ上町⇔御所町⇔大杉町
間でした。
昭和40年代末、高校卒業と同時に、区外に転居。
現在、門司に哀愁を感じる50も半ばに差し掛かかろうとしている
サラリーマンのおじちゃんです。

ノスタルジー門司の情報を色々お聞かせ下さい。もちろん現在のことも。
よろしくお願いします。
 

まくわうり  投稿者:りょうくんの母  投稿日:2008年 7月25日(金)02時01分53秒
  残念だなぁ...。
傷みやすいのですか、まくわ瓜。
確かに、当たり外れもひどくて、おいしいのになかなか当たらないけど
それも趣があって良いのに…ですよね。
あまり甘くないところが好きなのです。

以前、庭にイチジクの木がありました。
ドーフインとかいう種類で
夏休みの入りから、お盆過ぎまでr毎日、近所の人にとってはあげていました。

落ちる寸前まで熟した実は、ジャムのように甘く
ご近所の人に喜ばれましたが、不思議と家族はあまり食べませんでした。

近年、買ってでもイチジクを食べるようになった私ですが
あの熟しきったイチジクが懐かしく、思い出されます。
 

カンカン部隊のおばちゃん達  投稿者:歌う果物屋  投稿日:2008年 7月24日(木)22時28分47秒
  ■りょうくんの母さんへ
まくわうりは、お供えとして盆前には売りますが、食用としては販売していません。
と言うか、販売しても売れません。
今年も、一度売ったのですが、痛みだしたので、自分で食べちゃいました。
実は、僕は、まくわが大好きなのです。
あのサクサクする歯ごたえと、種の周りだけがほどよく甘いサッパリ感が食欲をそそります。
さて、本日は、当店の前も後ろも、炭火で焼くウナギの臭いで充満していました。
子供の頃、戸ノ上市場や柳市場の前はカンカン部隊のおばちゃん達でいっぱいで、ウナギもまな板に頭を乗せ、釘で打ち付け、さばいていました。
そのカンカン部隊のおばちゃん達、道路の無許可使用なので、時々、警官がくると、蜘蛛の子を散らすように、あっと言う間にいなくなりました。
けど、またスッと現れる。
みんな、一生懸命、生きてた時代でした。
 

梅雨あけって言うけど...。  投稿者:りょうくんの母  投稿日:2008年 7月23日(水)23時54分55秒
  毎日、暑いですね。
梅雨はあけたというけど、なんか淋しい。あれだ!雷っ
梅雨明けには盛大に、ゴロゴロ、ピカピカ雷がなくっちゃ!
雷嫌いな人にはご免なさい。

青臭いトマト、黄色いまくわうり、苦いピーマン
みんな最近見当たらないなぁ...。
果物も野菜も甘すぎるんです。

あそっか、まくわうりは「歌う果物屋さん」頼めばいいんですね。
 

直らない言葉  投稿者:歌う果物屋  投稿日:2008年 7月23日(水)22時20分27秒
  50年以上、大里に住んでいるので、どうしても直らない言葉があります。
JRを利用する時で、「汽車で行こう」と言ってしまいます。
電車は、僕らの世代にとっては西鉄のちんちん電車を差すのです。
今でも、道案内するときに、「真っ直ぐ電車通りまで下りて」なんて言い方をしてしまいます。
 

老松公園のサーカスと  投稿者:歌う果物屋  投稿日:2008年 7月20日(日)22時34分55秒
  ■ムエンチャンさんへ
門司地区なら、なんでもOKです。
いろいろ、教えて下さい。
キングパンなんですが、あれはキングメロンパンの略なんだと思います。
メロン風味ではなく、上側の網の目で、そんな名が付いたのではないでしょうか?
これは、あくまでも僕の推測です。
キングパンは、僕は嫌いでしたね。
口の裏側に張り付いちゃって、食べにくかった。
なぜか、ウグイスパンが好きでした。
さて、門司港地区なんですが、小学生の頃は、塩水プールとパコダ・菊人形・水族館・めかり公園の動物園・関門トンネル人道しか頭に浮かんで来ませんでした。
塩水プールで泳いだ後の、うどんと白いおにぎりが美味しかったのが忘れられません。
 

キングパン  投稿者:ムエンチャン  投稿日:2008年 7月20日(日)08時27分50秒    編集済
  はじめまして。門司港地区で生まれ育った男です。この掲示板は大里地区の方が多いようですが、門司港地区のことも取り上げてほしいので、今後投稿していくつもりなので、宜しくお願いいたします。さて、門司港地区では私が小学生のころ「キングパン」〜今のメロンパンのようなもので、メロン風味ではなかった〜がありましたが、いまでもあるのでしょうか?大里地区にもあった(あるいは、ある)のでしょうか?  

新しい波  投稿者:歌う果物屋  投稿日:2008年 7月18日(金)21時51分56秒
  ■宗大郎さんへ
いえすたで〜は、看板が派手だったので、配達途中に見ていましたが、入ったことはありません。
店名からして、やはりビートルズファンなんですかね。

中山主膳さんが言ってましたが、
「大里」って、本町・柳町周辺を差す言い方と、大里東から新町までの広範囲を差す言い方があるんですね。
「大里に買い物に行く」と言う時は、柳町周辺を差すんですね。

競輪場なんですが、僕が得た情報では、地元のサッカーチーム「ニューウェーブ」のフランチャイズの候補となっています。
これはなかなか面白いので、市民サイドから応援しょうと思っています。
大里も、その昔、戸ノ上神社付近を中心としたテーマパークのような構想もあったんですよ。

僕は、大里が小倉や門司港のベットタウンであったように、住んでる人が楽しめる町であればと思っています。
 

観光スポット  投稿者:宗大郎  投稿日:2008年 7月18日(金)15時26分42秒
   別院の「ますや」、覚えています。さらに山手に居酒屋(いえすたで〜?)の方も営まれてますよね。確か、元柳西バレー部の方(主将)が切り盛りされているのではないでしょうか。見かけは決していいとはいえない店だと聞いていますが、是非一度行ってみたいと思っています。もし、行ったことのある方がおられましたら、情報教えていただけませんか?
 明治17年の大里の人口は、3,000人足らずだったのですね。大里村はそのうちの1/3ですか・・・。6つの村があったようですね。僕は、全体が「大里村」だと思っていました。今は、大里で5万人以上はいるでしょうか。大昔の大里にタイムスリップしてみたいような気がします。
 子どもの頃は、小倉に出掛けるにしても、ほんとうにひと仕事でしたね。遠い所のような気がしてました。小学生時分には親に連れられ、門司駅前から電車に乗り、北方線に乗り換えて三萩野で降り、西鉄ライオンズ戦をよく観に行ったものです。
 そういえば、大里には、遊ぶところや観光スポットが見事に何にもありませんね〜。競輪場もなくなっちゃいました。門司港にはレトロや和布刈公園、ドラマシップ、北区には小倉城やRWK、動物園にメディアドーム、南区には平尾台にレジャープール、若区には海水浴場にグリーンパーク、東区にはSWに帆柱ケーブル、河内温泉に博物館、西区には子どもの館に吉祥寺、戸区には美術館に総合体育館・・・、てな具合なのに。
 大里にも、平家時代の貴重な遺跡や江戸時代の宿場跡などがわずかに点在しているようですが、規模が小さくメジャーになっていない、そんな気がします。
 

大里本町の塩湯  投稿者:歌う果物屋  投稿日:2008年 7月17日(木)22時31分59秒
  大里本町・大専寺裏にお住まいだったお客さんに話を伺いました。
「昭和28年6月28日の大洪水の日、私のうちも胸まで水が浸かった。
 踏切のところに親戚の家があって、今でもそうなんだけど、一段低くなっている。
 そこに小学生の女の子がいたから助けに行ったのよ。
 おんぶして、家まで帰る途中、転けたら最後と命がけで歩いていたら、
 周辺の二階から「頑張れー」と大人達の声が聞こえた。
 でも、誰も手伝ってはくれなかったわ」
 「西生寺の横に塩湯があってね、蒸し風呂もあったから、よく行ってた。
  その前に、普通の銭湯もあったわ」

みずき通りの貸衣装屋さんにビアガーデンの事を訊きました。
「ワシントン靴店の屋上もそうだけど、その一つ山側の田中青果さんの上にもあった。
 ステージなんかもあったはずよ」
 

写真に意外な人が  投稿者:歌う果物屋  投稿日:2008年 7月16日(水)22時32分37秒
  大里の芸者さんだった小稲ちゃんの写真を当店で飾っています。
その写真を見に、若い頃の小稲ちゃんを知っている友人の方が来店されました。
戦前の、柳と言う料亭で相撲取りを囲んでの集合写真をじっと見られて、僕に教えてくれました。
「前列の一番右の男性は、村上パンの店主ですよ」
ついこの間、村上パンの話題を出したばかりなので、吃驚しました。
盆明けに、詳しい話を訊こうと思っています。
 

バキュームカー  投稿者:歌う果物屋  投稿日:2008年 7月14日(月)22時00分42秒
  ■りょうくんの母さんへ
自家用車の所有が少なかったと言う件ですが、
僕が小学低学年の頃は、まだ、戸ノ上通りは砂利道で、夜、絹屋さんの前には、店主のクラウンがいつも駐めてありました。
通行の邪魔にはならなかったようです、1時間に数台しか通ってませんでしたから。

僕が住んでいたニコニコ市場と言う長屋では、裏が広場になっていて、柳市場側に水道があり、灯油缶を切って作った竈でご飯を炊いていました。
夏は、そこでタライに水をはり、子供達が入浴していました。
奥が木造の大きなゴミ箱。
一番奥が便所でした。
蜘蛛の巣がいっぱい張ってて、電灯もなかったから、夜は怖くてたまりませでした。
月に、何回かバキュームカーがくみ取りにやってきます。
今考えると、長屋の奥までとどくって、すごく長いホースなんですね。
車からは蒸気がでていたような気がするのですが、これは思い違いかも知れません。
あの、車から臭ってくる、なんとも言えない臭いが、蒸気に思えたのかな・・・
 

列車  投稿者:りょうくんの母  投稿日:2008年 7月13日(日)01時58分25秒
  昔は、自家用車の所有者が少なかったから、電車も列車もやたら混んでいた。

帰省した際に兄に聞いた父の話...。
私よりも兄のほうが、父との思い出が多いらしい(11歳の差では無理も無い)

小学生の兄は、門司駅から列車で父と小倉に向かった。
いやに混んでて、車両は人でいっぱい。それなのにチンピラが席を3人分くらい取って
足を広げて座っていたそうだ。
父が「そこをどけ」と言うと「おっさん おまえ...」と
父の襟を掴もうとした瞬間、父が上から垂直に「どぎゃ」と殴り
チンピラは床に気絶。

それを跨いで席についた父が、兄に「ここに座りなさい」と...
兄は肩身が狭くて困ったが一応、横に座った。
次の瞬間、混んでいる車両の人々がいっせいに、席の反対にぎゅううっと
詰め始めて、兄と父とチンピラの前は誰も居ない状態になった。

「おれ、凄く気まずかったぞ」と兄の談でした。

あ、父は普通のサラリーマンでしたので、念のため。
 

1960年代の情景  投稿者:歌う果物屋  投稿日:2008年 7月12日(土)22時44分55秒
  待ち合わせは、門司駅の時計台の下。
遅れても、二階にあるレストランの上がり口に黒板があって、それで連絡が取れていた。
僕は、少し早めに来ていて、待合室のよこにあった広いトイレで小用をたしていた。
ホームは8番まであり、階段には「めがねのヨシダ」の宣伝文字が下から眺めると浮かび上がっていた。
ホームには、長い手洗い場とトイレがあった。
列車に揺られ10分ほど経つとキャバレー月世界の丸い屋根が見える。
小倉駅に着くと、ヤマハ楽器で「加山雄三の太陽の恋」の楽譜を買い、井筒屋のレストランへ。
ここのカレーは、ライスとルーが別個に出てくる。
魔法のランプみたいな容器に。
食べ終わると、屋上で、ドライブゲームや車庫入れゲームをしたり、鳥の人形がくちばしにくわえて落としてくれる、お神籤をひいていた。
東映会館の最上階にも遊技場があり、ここにはスマートボールがあった。
さんざん、遊んだ後、魚町から砂津行きと間違わないように電車に乗って帰る。
赤坂辺りで、電車は坂を上り、それを下りると「もうすぐ門司だ」、そんな気がしていた。
 

大衆食堂  投稿者:歌う果物屋  投稿日:2008年 7月11日(金)22時41分15秒
  ■宗大郎さんへ
明治17年の大里の人口です。
新町村(333人) 馬寄村(373人) 東原町(285人) 柳村(417人)
大里村(1092人) 廿町村(101人)

上記の数字だけで、当時の様子が頭に浮かんでくるのではないでしょうか?
僕は、建物が変わっていくのは仕方ないと思っています。
けれど、資料として、ちゃんと残していけば、後は想像力でいつでも、その町と出会えると思っています。

今日、アーケードのあった柳町銀天街近くに配達に行ったら、旧田島の豆屋さんの二軒隣のラーメン屋さんに「昔、懐かしいミルクセーキ」と看板にありました。
子供の頃、戸ノ上市場の山側、今の二葉屋和菓子店さん辺りに「小菊堂・レストラン」がありまして、そこで初めてミルクセーキを飲んで、「こんな美味いものがあったんだ」と病み付きになったことがあります。
卵に牛乳が入っていたから、当時、高価な飲み物だったと思うのですが、野菜屋をしていた母にねだって飲んでいたんでしょうね。

レストランがらみで大衆食堂の話をしますね。
僕の長屋があったのが、ニコニコ市場で、これは絹屋呉服店と柳市場の間にありました。
出入り口にあったのが新屋食堂。
チャンポンの美味しい店でした。
ガラスケースの中には、三角のイナリが置いてありました。(僕はずっとイナリは三角だと思っていました)
箸立てがあって、箸は、どこの食堂も赤い箸でしたね。
スーパーとみやまの横には「みゆき」さんがあって、ここもいろんなおかずが並べていました。
後は、戸ノ上1丁目の守田時計店並びの大衆食堂2軒。
1軒は、同級生の女の子の家でした。
そのうち大衆食堂も姿を消し、10数年前は、別院の朝日市場の山側にあった「ますや」さんに、よく行ってました。
今は、レストランになっています。
あっ、そうそう、小学校の頃、手島模型店の前あたりに、かまど炊きのご飯が出る店があって、そこで卵かけご飯を食べた記憶が蘇ってきました。
Tと言う級友の家が近くにあって、日曜日の朝、一緒に「狼少年ケーン」を見ていました。
 

廃藩置県  投稿者:宗大郎  投稿日:2008年 7月11日(金)20時47分14秒    編集済
  できることならもう一度、門司に住みたいです。
大里で暮してみたい。
門司駅は、もうすっかり変わってしまって、
何の変哲もない新駅になってしまったけれど、
柳町商店街、戸の上市場、みずき通り(?)の
雰囲気は大好きです。
そこそこ賑わいもあって、折々に活気もあって、
40年前とさほど変わっていないような気がするけど、
気のせいかな?
昔の街並みをそのまま残すというのは、
至極無理難題な話ですが、
再開発ビルなんかを建てて、高層化して、
どこも同じようなテナント集めに奔走するような昨今、
黒崎コムシティの二の舞になってしまっては
元も子もありません。
柳町が昔のままであって欲しいという願望は、
私だけのわがままかも知れません。

ところで、大里地区の変遷をまとめてみました。
江戸時代は、   豊前国企救郡大里村??
明治元年からは、 日田県企救郡大里村??
明治4年からは、 小倉県企救郡大里村?
明治9年からは、 福岡県企救郡大里村?
明治22年から、  福岡県企救郡柳ヶ浦村
明治41年から、  福岡県企救郡大里町
大正12年から、  福岡県門司市大里
昭和38年から、  福岡県北九州市門司区(大里)
 

競輪場に関する思い出  投稿者:歌う果物屋  投稿日:2008年 7月10日(木)22時34分29秒
  小学六年の時、Hと言う級友がいました。
運動神経が抜群で、特に足が速く、運動会の町内対抗リレーの時などは、ぐんぐん追い上げ追い越すスター的存在でした。
その彼が、日曜日になると僕たち級友十人ばかりを連れて、下関市長府に遊びに行ってました。
当時は水族館の横にトロッコ列車のような乗り物で見て回るスリラー館があって、そこで遊んだ後は、山側の遊園地でゴーカートを乗りまくっていました。
お金は、みんな、そのHが出していました。
ある時など、僕が途中で帰る言うと、タクシー代千円をくれたことがあります。
それが、学校に知れ、僕らはこっぴどく怒られました。
Hのお母さんは競輪場で働いていて、その売り上げの金をくすねていたのです。
僕らは、怒られただけですんだのですが、学校では大問題になっていたそうです。
 

扇風機の前で歌う  投稿者:歌う果物屋  投稿日:2008年 7月 8日(火)23時10分18秒
  ■なんちゃって京女さんへ
団扇で思い出すのは、狭い部屋で、妹と僕をはさんで寝ていた母の思い出。
その頃、扇風機がなかったのかナー、母が暑がる子供達に一晩中、扇いでくれていました。
朝、早く仕入れに行って、夜は遅くまで漬け物や、野菜を湯がいていた母。
いったい、いつ寝ていたんだろう。

扇風機が我が家に来て、僕が一番最初にしたのは、その前で歌を歌うこと。
エコーがかかったような声がかえってくるので、とても上手く聞こえました。

腰巻はしょって溝におしり突き出して中腰でおしっこしているおばちゃんを、石田の茶碗屋さんの裏(大里診療所さんの裏)で、よく見かけました。
後ろに飛んでるのが、子供心にも奇妙な風景でした。
今でも、そこの側溝を見ると、思い出します。

その石田のおじいさんが、生きたままのナメクジを「喉に良いから」と、よく飲み込んでいました。

戸ノ上通りが砂利道の時は、馬糞がよく落ちてましたね。
当時、日通の会社内でも、荷物の運搬に馬車が使われていたそうです。

門司競輪場ですが、ひよっとすると意外なものに使用されるかも知れません。
今、その運動を市民サイドからやろうと思っています。
今月の27日に、歌が間に合えば、そのシンポジウムで歌います。

この間、めがねのヨシダ社長と「日韓フェリー・モジライン」を共作、式典で歌ったのですが、こん週の日曜日はテレビ局の取材用に共作した「ウナギの歌」の収録があります。
曽根干潟は、意外ことに「天然ウナギ」の名産地でもあるんですね。
その吉田社長から聞いた話ですが、門司駅前のお店の隣が旧東宝街で、そこにあったダンスホール(先日書き込みした漬け物屋さん行きつけの)が、社長が小学生の頃に全焼したそうです。

今日は、灯台近くのレストランのオーナーさんが「あなたのホームページに、私の父の写真があったので感激しました」と来店。
彼女のブログもあるので、下記にアドレスをクリックして見て下さい。

http://plaza.rakuten.co.jp/lamermiyabi/

 

暑おすな〜  投稿者:なんちゃって京女  投稿日:2008年 7月 8日(火)14時08分54秒
  とにかく暑い!!心拍数あがりっぱなし・・最近のおばちゃんはシュミーズ着ないしな・・タンクトップに短パンですか・・黒ずんだひじとひざを気にしつつ・・父親のちぢみのシャツとステテコに団扇片手にビールを飲む姿、相撲中継のまのびした呼び出しとか蚊取り線香の匂いとか母親が汗一杯かきながら焼きなすつくっていたなとか・思い出すやん・・おばあちゃん達てよくもろ肌ぬいで涼んではったねえ。すごいのは腰巻はしょって溝におしり突き出して中腰でおしっこしてはったんやし忘れられんわ。ところで子供の頃荷物を馬で運んでた
よね途中で馬がうんちを落としてそれを原料にして図工で使うバフン紙を作るとか言ってなかった?なんか汚い話で堪忍ね。
 

戸ノ上通りは遊び場でした  投稿者:歌う果物屋  投稿日:2008年 7月 5日(土)21時56分27秒
  ■りょうくんの母さんへ
シュミーズですけど、僕らは「しみず」って言ってました。
海水浴場でも、柳西中出身さんが書かれたように、おばさん達は、しみず姿で泳いでいました。

丸和の前のパンツのおじさんですが、
「ちかっぱ」って言うローカルテレビ番組があって、去年、「門司の中心で愛を叫ぶ男」と題して僕が出演したんです。
その時に、当店を探すと言うことで、中大門商店街周辺の方々にリポーター(ごりけん・パラシュート部隊)が、
聞いて回ると言うシーンがあったのですが、その時に、丸和の前のパンツのおじさんに出会った訳です。
しかし、すごいキャラクターだから、僕は食われてしまいましたね。
そのパンジー(そんな愛称を付けられています)さんは、かって門司港のキャバレーで働いていたので、
けっこう、裏側の歴史に詳しいのではないかと思います。

15年くらい前に、今津に配達に行った時、玄関で名前を呼んでもなかなか出てこないので、
横の網戸を開けて置いて帰ろうとしたら、団扇を手にした素っ裸のおばぁちゃんが居たので、吃驚仰天しました。
おばぁちゃんは別に驚く風もなく、「そこに置いといて」と団扇で指示していました。

■柳西中出身さんへ
ステテコって、下着じゃなくて、半ズボンみたいなものでしたよね。
夏の夜は、戸ノ上通りの柳の木の下で、長椅子だして、ステテコ姿で、父達は将棋を指していました。
僕らも、その横で、ゴム跳びやお馬鹿さんをして遊んでいました。
道を渡ると、青柳ラーメン屋さんと佐藤古本屋さんの間に品田洋品店さんがあって、
そこは、早くからテレビを持っていたので、いつも見せて貰っていました。
眼鏡をかけた、気の優しい、おばちゃんでした。
 

我が家もそうでした  投稿者:柳西中出身  投稿日:2008年 7月 5日(土)09時45分12秒
   りょうくんのお母さんが言われるような風景が街のあちこちにありましたね。
父の職場の海水浴に行った時にも、お父さんはパンツで、お母さんたちもシュミーズで泳いでいる人がいました。
 祖父の家の夏の夕方の風景はいつも真っ白な下着しか思い浮かびません。(笑)
お客さんがくると皆あわてて洋服を着ていました。
 洋服といっても、ステテコをはくとかでしたけど。
私の叔母も東京で働いてて、やはり帰ってくると、怒ってました。
 絵の具箱や、人形用の赤いフェルトのベッドを買ってもらいました。
やっぱり、「東京の物は違う」と子供心に思いました。
 

我が家ルネッサンス  投稿者:りょうくんの母  投稿日:2008年 7月 5日(土)02時56分58秒    編集済
  あのころ夏の家の中は、母はシュミーズ姿で
父は…ああ!丸和の前のパンツ爺さんみたいに本当にパンツ一枚でした。
まだ、40歳くらいだったのに…(絶句)

何故か父のこだわりは、パンツ一枚の時に限っては
色物で普段は白のパンツ(福助愛用)
透けることを考えていたのかは不明です。
井戸があったので、冷たい水で濡らしたタオルを肩に乗せて
あぐらかいていましたね。

そんな、我が家にルネッサンスが訪れたのは、東京でデパガをしていた
姉が戻ってきてからです。
姉が激怒!「お父さんなんて格好なの!お母さん!みっとも無いっ」
そして「シュミーズ、パンツイッちょ禁止令」
母は、あっぱっパーという格好に進化。
父は…従わずにずっと、姉に攻撃されていました。

今よりも、首都圏と地方の格差があった時代
姉は、最先端のおしゃれをして帰ってきて両親に落胆(普通だったのに)
お見合いに付いて来なくていいと言い出す始末でした。

でも、平成に入ってでも夫の田舎(門司デス)じゃ、近所のおばあちゃんが
涼しい風の吹く路地に、トップレスで座って喋ってたのには
度肝を抜かれましたが…。
 

駄菓子屋さんが思い出せない  投稿者:歌う果物屋  投稿日:2008年 7月 4日(金)22時22分23秒
  ■宗大郎さんへ
柳公民館前に級友の家があって、中学時代は、そこでよく遊んでいました。
彼は森山良子のファンで、良子のクリスマスとか言うLPレコードを持っていました。
当時、流行ってたモデルガンもいっぱい持ってましたね。

札幌ビールAPはゼンリン地図には「サッポルビール御山寮」と記載されています。

田村駄菓子屋さんの記憶は、まるでないですが、そろばん塾の看板は最近まで掛かっていたような気がします。
しかし、小学校の通学路だったから、知ってるはずなんですが・・・
小学生の頃は模型屋さんの前を通って、戸ノ上通りを下っていたから、それで記憶にないのかも知れません。

妹尾歯科と言う名前じゃなかった気がしますが、現スーパー丸和正面入り口前に、確かありましたよね。
その横くらいに、M田と言う頭のくりくりした級友の家がありました。

中丸ダンスホール(兼剣道場)は、今もあります。
それから、思い出してみると、現スーパー丸和周辺には、旅館がいっぱいありましたね。
小倉側出入り口の前が、H田と言う級友の旅館がありました。

牧酒店は現在「大里飯店」と言う中華料理屋さんになっています。
その先の、柳御所神社裏の浅原酒店は、2年前に廃業しました。
 

戸の上通りと不老通りの間  投稿者:宗大郎  投稿日:2008年 7月 4日(金)10時07分5秒
  山下清画伯、確か柳小学校にも訪れたことがありますよね。
小さな版画絵を何枚か買った記憶があります。
私の家の近所にも、ダンスホールありましたよ。
「魅惑のワルツ」とか「第三の男」なんかのメロディーが
流れていたような気がします。

昔の主な建物を思い出してみました。
【御山通り】現スーパー丸和の通り、川筋
柳公民館 ⇒ 札幌ビールAP ⇒ 田村駄菓子屋(兼そろばん塾)⇒ 妹尾歯科
【弓場通り】
尾崎学習塾 ⇒ 中丸ダンスホール(兼剣道場)⇒ 浅野スレート社宅(戸建)⇒ 天理教 ⇒ 大熊パン製造所 ⇒ つづみ旅館 ⇒ ちとせ旅館 ⇒ 江口印刷所 ⇒ 上田タバコ店
【もうひとつ門司港側の通り】
牧酒店
 

あれこれ  投稿者:歌う果物屋  投稿日:2008年 7月 2日(水)19時25分10秒
  ○なんちゃって京女さんが言ってた柳町郵便局裏のダンスホールは、
 病院の先生が個人的にやっていたものみたいですね。
 その時代はヨシダめがねさんの隣、旧東宝街にダンスホールがあって、
 戸ノ上市場の漬け物屋さんなどは、大会での優勝常連者で、ビール1ケースとか、
 無料入場券をゲットしていたと言うことです。

○奥田のB29墜落現場は、すり鉢型の穴ができていて、油が底に溜まり火が燃えていたそうです。
 パイロットの焼死体も見えていたそうです。
 周辺には、部品が散らばっていて、話をされた方はガラスの破片を持ち帰って、
 眺めていると、キャンデーみたいな匂いがしてきたと言うことです。
 一人生存者がいたと話されてました。

○ワシントン靴店のビアガーデンですが、品田さんに訊くと、
 「小学校時代じゃなかったかなー。あの頃は、ビルはあれしかなかったような気がする」
 裏に回ってみると、中央が駐車場で福田書店をはさんで、コの字にビルは建ってるんですね。
 どうりで、屋上が広いはずです。

○戦時中の電車は、海側を木枠のようなものでかこって、見えなくしていたそうですね。

○「ギロ」と言う楽器の名前の喫茶店がトミヤマの近くにあって、それが大里の最初の喫茶店だそうです。

○異人館ですが、当時、その近くに住んでいた方が
「小学生だったんだけど、森が深くて、館は屋根しか見えなかった」と話してくれました。
 

子供もパンツ一枚で遊んでた  投稿者:歌う果物屋  投稿日:2008年 7月 1日(火)23時14分29秒
  ■柳西中出身さんへ
「走れ、げんた」は知りません。
「一丁目、一番地」も、聴いたことはなかったです。
今日、中元の配達に行った先で、ドアを開けると旦那さんがランニングシャツにパンツ、奥さんがしみず姿?で食事していて、「あっ」と叫んだので、僕も「ここ、おいときまーす」と急いでドアをしめました。
その時に、昔は、おいちゃんも、おばちゃんも、夏は、その姿だったのを思い出しました。

■りょうくんの母さんへ
ワシントン靴店の上に、そんな場所があったんですね。
今度、通った時に、見てみます。
二十町のお寺は「光国寺」さんですね。
その通りをはさんだ前の公民館で、中学時代、僕らはフォークコンサートをしていました。

■mkさんへ
山下清の絵は、僕の息子が小学生の時に、「校長室に飾ってあったよ」と言ってました。
トンボの絵だったそうです。
また、同じ商店街の店主で、団塊の世代の方が、山下清の絵に、当時の校長が色を塗って、と話していましたが、真実か、とうかは分かりません。
これも噂ですけど、ある方が個人的に持ち出したと言う話も聞いています。
おって、調査致します。
 

山下清の絵  投稿者:mk  投稿日:2008年 7月 1日(火)20時26分46秒
  これは数年前に柳小学校の先生(今もいらっしゃるかどうか分かりません)からお聞きしたことで、事実かどうか分からないことをお断りしておきます。(それを見たことがあるといってそれが事実とは限りません)

山下清の絵は色が褪せ、いつのまにかただのベニヤ板になってしまいました。そこで体育館の窓が台風で壊れた時に、そのベニヤ板で修理したそうです。そのうち板が腐ってしまい捨ててしまったということでした。

先生も移動があるため、過去の事跡を伝えることが困難ということです。同窓会組織でもあるとまた違ったのでしょうが。
私はブラスバンドに所属し、北九州音楽コンクールで3年連続最優秀賞という栄誉を得ましたが、その痕跡は盾が3つとトランペットが1本しか残っていません。

先生も何のためのトランペットが分からないとおっしゃっていました。


今の校長先生、教頭先生は過去の事跡に対し熱心ですが、その熱意が後世まで続いてほしいと願っています。
 

屋上ビアガーデン  投稿者:りょうくんの母  投稿日:2008年 7月 1日(火)03時58分42秒
  鯉の釣堀は、福田書店の場所ですね。
ビアガーデンは、私が知っているのは今の「靴のワシントン」の上です。

あと、稚児行列に出たのは昭和39年だと思います。
黄金町(今だと二十町でしょうか)方面のお寺だったと思います。

懐古主義ではないけど、昔を懐かしむのは重ねた年月分「昔」が増えたからで

先日、子供から「昔を振り返っても何の生産性も無い」と言われ
ちょっと残念な気分になりましたが
「20代には懐かしむ過去もまだ、浅いものだ」と自分なりに思いなおしました。

最近、友人とも昔話に花が咲きます。
うろ覚えのパーツを年上の方に聞いて繋ぎ合わせるのは楽しい作業です。

父・叔母・姉・兄・私・子供たち皆、この町で育って同じ小・中なのは
共有部分が多く幸いな事だと思うのです。

ところで、柳小にあった「山下 清」の絵
(黄色のベニヤ板に黒や緑、赤の太マジックで描いた昆虫やカタツムリ)
私が卒業までは、正面玄関の丸くカーブした階段の上の壁に掛けてあったのに
子供が入学した時は、いつの間にか無くなってしまったと聞きましたが
すごく残念です。
どこに行ってしまったのでしょう・・・。
 

一丁目一番地  投稿者:柳西中出身  投稿日:2008年 6月30日(月)23時58分57秒
   懐かしい、ラジオドラマでしたね。もうひとつ「走れ、げんた」というドラマを聴いていました。子供が生まれたら、ぜったい源太という名前をつけようと思っていたのですが、あえなく却下されました。
年寄りっ子と言われぬよう「げんた」のようにたくましく育ってほしいと願いながら暮らしています。大学生になるまであと三年がんばらないといけません。
 我が家は育った場所も、世代も違うので、昔話ができません。私が中学に上がった時にはまだ「相棒」は赤ん坊でしたから。(笑)掲示板楽しみにしています。
 

不老(風呂)を考える  投稿者:歌う果物屋  投稿日:2008年 6月30日(月)23時20分2秒
  ■りょうくんの母さんへ
そう言えば、パチンコ店の中にあったような気がいます。

御稚児さん行列ですが、昭和32年の写真で、本堂で象の模型の下でカムリものをした子供達が百名くらい写っているのと、高田町あたりを行進している写真があります。

ヨシダめがねの裏にあったビリヤード場には、よく行ってました。
不良だったんでしょうね。

「鯉の釣堀」はたぶん、柳町アーケードの小倉側、福田書店の横辺りにあったのではないでしょうか。
「屋上ビアガーデン」は、サウナ大里のところだったでしょうかね。

僕は、店を片付ける時には、昭和30年代40年代のドラマやアニメの音楽をかけて気分転換しています。
「向こう三軒両隣り」や「一丁目一番地」を聴くと、穏やかな気分になれるし、鉄人28号の「正太郎のマーチ」は元気を取り戻してくれます。
この掲示板も、店なんか思い出してなんになると笑われるかも知れませんが、気分が落ち込んだ時などに、ちょっと覗いて、書き込んでもらって、少し元気になれるような効果があればと願っています。

最近、ふと気づいたことですが、風呂と言うのは江戸時代までは蒸し風呂のことだったんですよね。
温湯につかると言う習慣はなかった。
ただ、天皇だけは、朝、儀式として湯につかると本で読んだ気がします。
ただ、それは風呂と言う名にあたいするものではなかった。
すると、不老町が風呂からきていると言うのは、江戸以降の話になるわけですね。
地名もやはり、そこらへんから創られていったのかなーと思いました。
 

お稚児さん  投稿者:りょうくんの母  投稿日:2008年 6月30日(月)02時58分6秒
  *若草のパチンコやさんで冷たいお水飲んでました。

御稚児さん行列は、どこかのお寺の催しで参加をしました。
お寺にとって、何十年に一度の、めでたいお祭りだそうで5歳までの子供が参加。
参加すると子供が病気しないとかで、お化粧して行列に出ました。

ダンスホールは知りませんが、現ヨシダ時計店の裏あたりに
ビリヤードがありました。友達の家に遊びに行くのに、そこを抜けるのが
近道でしたが、親からは「不良がいるから通っちゃだめ」と言われていました。

ほんのひと夏、柳町に「鯉の釣堀」とか「屋上ビアガーデン」が仇花のように
開店した事もありました。
ビアガーデンは夜になると、バンドの上手くないベンチャーズが聞こえてきました。
昼間にこっそり見に行きましたが、もちろん、白茶けた真昼の屋上に子供なりに興ざめしたものです。

定着はしなかったけど、なんにでも飛びついてチャレンジする姿は、今の門司には
考えられないパワーですね…。

昭和が懐かしいのは、若者にも似た無鉄砲でパワフルな、行き当たりばったりさが妙に
羨ましくも楽しいからでしょうか…。
 

昭和20年代、井筒屋1階  投稿者:歌う果物屋  投稿日:2008年 6月28日(土)23時03分55秒
  ■りょうくんの母さんへ
そうですね、僕らは、やっぱり太鼓饅頭ですね。
若草の中で冷たいウォーターは、映画館?パチンコ屋さん?
それから、すみません稚拙な質問なんですが、御稚児さん行列が分かりません。
お客さんから頂いた写真で、昭和30年代なんですが、お寺に子供達がいっぱい集まって、
その後、町を行進している様子が写っています。
それですかね?

今日は、昭和20年代に小倉井筒屋の1階売り場で働いていたお客さんから話しを伺いました。
○昭和28年の大水害の時は、地下食品売り場に水が流れ込んで営業できなかった。
○紫川の橋まで水が溢れていた。
○女性にとって困ったのは、濁流が股下まで上がってきたこと。
 それ以上になると、衛生的な問題が生じるので、ぬらさないように必死だったわ。
○売り子さん達の給料は、普通の3倍くらいあったのよ。
○「100円」と言う数字が分からない米兵さんが多かった。
○芦屋から来るアメリカの航空兵達がかっこよくて、アイドル的存在だった。
○化粧品売り場は、パンパンと呼ばれた女性客が多かった。
○八幡製鉄所社員と結婚するのが、店員さん達の夢だった。
○石鹸を売っていたんだけど、当時は、それをお祝いものに使う方が多かった。
 おこわ石鹸とか松竹梅石鹸などが売れ筋だった。
 価格は百円。
○柳町郵便局裏のは知らないけど、その電車通りをはさんで海側に「OK」と言うダンスホールがあった。
 

味園庵  投稿者:りょうくんの母  投稿日:2008年 6月28日(土)00時45分25秒
  大判焼きとよやであっていると思います。
メルヘンは今もあるケーキやさんでしょうか?
あの並びは間口が狭くて、順番が記憶不鮮明です。
大判焼き(太鼓饅頭と呼びたい)意外と古くからあったのですが…。
小・中・高と食べていました。

私が知っている味園庵は若草のパチンコ屋さんの並びです…。
不老通りにあり、小学校の帰りには、味園庵のショーウィンドウで
食べたいものを友達と眺めて、若草の中で冷たいウォーター飲み機で喉を潤し
なかなか家に帰り着かないこと。

ちなみに、味園庵のコックさんでタマノさんという一家が、近くに住んでいました。
タマノ家の女の子は、同級くらいで御稚児さん行列の時に写真を一緒に撮りました。
のちにタマノさん一家は引っ越して、小倉で食堂をしていました。
 

象の群れが戸ノ上通りを歩いたんだ  投稿者:歌う果物屋  投稿日:2008年 6月27日(金)22時30分4秒
  ■りょうくんの母さんへ
太鼓饅頭の店ですが、味園庵が門司駅前にあった当時の写真を見ると、欠けているのですが、隣に「甘党の店・焼・うどん」と文字がみえます。
また、1980年代の住宅地図を見ると「ミスタードーナツ」「ヨシダ時計店」「大判焼とよや」(これとは違うんですか?)「お菓子メルヘン」とあります。
また、ダイナマイト自殺ですが、僕が級友のお母さんから聞いたのは、御所神社の横道の並びにある家の二階でした。
戦前か戦後かは忘れましたが、そこを通ると怖かったそうです。
柳町の旅館の方は初耳です。

「あのころの北九州市」フォーメンズ出版の中に、昭和31年・大里で催された世界動物博覧会の写真がありました。
たぶん、本町から戸ノ上通りへ抜ける国鉄ガード下の風景と思いますが、象が12頭くらい歩いて運ばれています。
その周りには、子供達が群がっているので、本町方面の方に当時の話を訊いてみようと思っています。

お隣の婦人服のご主人が、昔の門司駅前周辺に詳しいので、スマートボールの話をしたら、それまでは「ビンゴ」だったと話してくれました。
確かに、28年の大雨の時の写真をみると、「ビンゴ」の看板が見えますが、僕はずっと、スマートボールとビンゴは同じものだと思っていました。
ぜんぜん違う遊びだったんですね。
内容をお聞きしたのですが、いまいち、どんなものか分かりませんでした。
 

懐かしい、昭和の門司の町  投稿者:りょうくんの母  投稿日:2008年 6月27日(金)01時54分46秒
  はじめまして。
私も門司駅前でおじいちゃんの代から住んでます。
(おじいちゃんが小倉から移ってきた時は、今の門司駅前は沼のように水はけが悪い田んぼだったそうですが…)
最近、年上のご近所さんの友達に、いろいろ聞いて・・・さすがに、子供の頃の10歳差は大きいっ。
そーっだったのかと目から鱗…。
門司駅前、今のミスタードーナツが「香港飯店」だったころ
その小倉側に、太鼓饅頭(大判焼きとは言わない)のお店があって、そこの饅頭はすごくおいしかった!
只者ではなくおいしくて、おばちゃんは粋な感じの老女だったのですが
最近聞いたところによると この方が、某老舗和菓子屋のお妾さんで
あんこは、和菓子屋が卸していたそうです。道理で旨いわ!

私の姉が中学の時に、柳町の旅館でダイナマイト爆発による自殺があったことも
話は聞いていたけど(今は駐車場になってる)リアルで爆発聞いた人から
話を聞いて…物騒な時代だったなとびびりました。
 

モダンな高田公団住宅  投稿者:歌う果物屋  投稿日:2008年 6月26日(木)22時06分17秒
  ■柳西中出身さんへ
改めて、昭和22年・大里地区航空写真を見てみると、不老通りの高田公団の位置から門司駅まで、川が写っていました。
高田公団(当時の柳小学校)から山側は、全部、田畑だったんですね。
その高田公団住宅。
できた当時は、とてもモダンで、級友のH本君やM松君が住んでいました。
今は、高齢者住宅のようになっていますが、あの狭さで、兄弟がたくさんの家庭は大変だったでしょうね。
間もなく、取り壊される予定です。
競輪場の話は、まだ後日、書き込みいたします。

■宗大郎さんへ
昭和35年当時の瞳幼稚園のアルバムを持っています。
運動会は豊国学園の運動場で、生徒さんと園児さんが手をつないで踊っています。
背後にみえる建物は、図書館みたいですね。
園長先生は、眉毛の太い、頭のテカテカしているおじいちゃん。
制服は襟の大きな、セーラー服みたいに見えます。
味や匂いの話、とても興味深く読ませて頂きました。
僕も、酢レンコンを食べると運動会を思い出したり、お線香の匂いを嗅ぐと滝の観音を連想してしまいます。
福神漬けは、たぶん、野口の漬け物屋さんの匂いではないでしょうか?
当時、大きな樽で、量り売りしていた記憶があります。
河谷のたこ焼屋さんと言うのは、どうも記憶にありません。
僕らは、高田公園前の駄菓子屋で、ベビーコーラーとかおでんの買い食いをして帰宅していました。
区役所が、まだ墓場だった時代の話です。
 

豊国学園  投稿者:宗大郎  投稿日:2008年 6月26日(木)20時25分55秒
  味や匂いで、ふと昔の情景や雰囲気がパーッと浮かんでくることがありますよね。
私の場合、それはいつも幼稚園以前のころなんです。
粘土や練り糊、クレパスの匂いをかぐと、瞳幼稚園での教室生活。お道具箱には色んなものが入ってました。
タケノコの煮付けの味は、幼稚園で手持ちのちっちゃなお弁当箱を開いているとき。
ヨーグルトの味は、同じくパン給食のときのこと。ヨーグルトは細長い三角錐みたいなガラス容器に入ってような気がします。
ガソリンの匂いをかぐと、決まって、通園バスに乗ってるときの情景。バスが揺れるたびにキシむ木製の床の音や、出し入れ式のオレンジの方向指示器。
漬物、特に福神漬けの匂いは、おふくろに連れられて行っていた戸の上市場の情景。買い物客で溢れてたような気がします。
ワキガの匂い(自分のではありません)は、当時ふじ組担任のやさしいN先生のこと。きっと患ってらしたのでしょう。
瞳幼稚園といえば、園庭にあったグルグル回るあの遊動円木が楽しくて楽しくて、とても忘れられません。今ではそんな遊具見かけなくなりました。
ところで、河谷のたこ焼屋さんは、柳西中学校の下手のほうにありました。カリカリしていてとても美味しかった。
 

柳小学校の跡  投稿者:柳西中出身  投稿日:2008年 6月26日(木)00時19分4秒
  柳団地に住んでいました。今田さんという駄菓子屋さんが確かにありました。はきはきした女主人でしたよ。団地はとても住みやすかったです。不老通りは川が流れていたんですね。
 小学校の担任の先生(柳小ではない)が月曜日になるとお休みするのでどうしたのと思っていましたら、ある日同じクラスの子のお父さん(散髪屋さん)が競輪場で会ったそうで、すぐに噂になりましたが「毎週競輪に行ってたんだ」皆と納得しました。(笑)今だったら大変なニュースになっていたでしょう。私も一度、中学校になってから、あの人混みの中に見つけたことがあります。いい時代(?)でした。
 

不老通りの川  投稿者:歌う果物屋  投稿日:2008年 6月25日(水)22時35分35秒
  子供の頃、不老通りに住んでいたお客さんに話を伺いました。
還暦前の方です。
○味園庵の隣のかつはら時計店の隣が、おでんとかも売ってた駄菓子屋さんだったわ。
 その隣が角打ちがあった酒屋さん。
○世界動物博の時、不老通りには川が流れていて、ぞろぞろとすごい人波が、
 今の球場まで歩いていたわね。
 父の食品工場も不老通りにあったから、角に食堂を建て、アイスキャンデーとか
 売ったのよ。
○高田町にあった柳小学校に通っていて、きりはた先生が担任だったかな。
 二宮金次郎の像があった。
 校門を出ると、今田と言う駄菓子屋さんがあって、数件左隣が少し怪しげな旅館だった。
 卒業は新校舎の方でしたのよ。

門司市史第二篇に、昭和4年、下関の先帝祭に負けじと大里地区では「平家祭り」を挙行したとあるのですが、さてどんな行事が行われたのでしょうか。
 

パンツが汚かった  投稿者:歌う果物屋  投稿日:2008年 6月24日(火)22時30分30秒
  お客さんと話しです。

○「リボンシトロンだけど、みよしのレモンとか言ってたような気がする」
○「宝石はね、若草の横に味園庵があって、その筋にかつはら時計ってあったの。そこで買ってたわ」
○「大里戸ノ上の宮本酒店の隣に吉田薬局があったのよ。その隣がおじさんとおばさんがやってた駄菓子屋さん。
○「子供のころは、散髪屋さんでいつも、乙女刈りしてたわ」
○「たいていの家の塀にはコールタールみたいのが塗っていたじゃない。
  私は、いつも登って跨って遊んでいたから、パンツが真っ黒だった」

さて、本日は1980年頃の門司港・栄町のお店です。
旧山城屋から見て左から、最初の一角。
「佐藤果実店」「門司薬局」「堀川洋品店」「石田公明堂」「銀月堂菓子店」「イイダ毛糸店」「オガタ商店」
「マツイシ眼鏡店」「吉崎化粧品店」「オークラ陶苑」「つたや菓子店」「ユニオン果物店」「上林呉服店」
「梅月食堂」「喫茶軽食木村屋」「割烹しげる」「ユタカスポーツ用品店」「ミユキ洋服店」「ホリエ洋服店」「中野洋服店」「小石カメラ店」「スターカメラ店」「洋装のみくろ」「北野歯科」「中川」「宗家園」「三浦理容店」「タニ薬局」「割烹更科」「金山堂書店」「利光美容院」
 

はりつけが痛かった  投稿者:歌う果物屋  投稿日:2008年 6月20日(金)23時03分50秒
  ■柳西中出身さんへ
クリスマスの、あのケーキ、柳西中出身さんも貰っていたんですね。
僕は、あのケーキが忘れられなくて、今でもケーキはチョコレートとかなんにも混ぜていない白いのが好きなんです。
苺とかメロンとは乗っかってなくて、ドレインチェリーだけのチーピーなケーキが。
それから「マルクのパン」でいいですよ。
日の丸幼稚園の山側に工場があって、その隅の棚で販売しているのを買っていました。

■宗大郎さんへ
大平山のラーメン屋(門司港)を高校時代に食べた時は、ショックでした。
縮れ麺に醤油スープ。
今までに食べたことがない味でしたね。
「河谷のたこ焼屋」ってのは、知りません。
どこにあったのでしょうか?
六虫は、おじさん達で、またやりたいですね、僕らは御所神社でしていました。
相撲の土俵なんですが、戸ノ上神社と柳小学校にもあった気がします。(小学校は勘違いかも知れません)
ドッツンは、昼休みになると、必ずしていましたね。
後は、乗り馬とか、ケンパですね。
柳小学校にあった、給食用のエレベーター。
あれに、乗りたくてたまりませんでした。
ガチョウ屋敷は、僕の造語です。
当時、柳町郵便局の裏にガチョウを飼っていた家があったんです。
その前の空き地が、たまり場の一つでした。
 

ガチョウ屋敷って??  投稿者:宗大郎  投稿日:2008年 6月20日(金)22時06分56秒
  大里に19年も住んでいたというのに、コックドール、味園庵、文苑、ひつじ屋、ガチョウ屋敷・・・・、ほとんど知らない、というか覚えていないのです(話に入れないことに・・・涙)。
私はちょっと年代が違うのかな〜。それとも行動範囲が極端に狭かったのかも。
皆さんはよく外食とかされていたんですね〜。
当時は、家族で外食などほとんどしたことがありません。
中学や高校の部活の帰りに「河谷のたこ焼屋」に寄ったり、「大平山のラーメン屋」で腹ごしらえしたくらいです。トホホホ・・。
月のお小遣い、2、3,000円でしたものね〜。

シャシン・グンジン⇒自宅前
ロクムシ・ショウガツ⇒札幌ビール社宅敷地内
貝割り(ハマグリ)⇒妹尾歯科医院付近
草野球⇒札幌ビール工場横空地、高田公園、札幌ビール社宅横空地
ランチン⇒弓場町三角広場(町内ラジオ体操場所)
フラフープ⇒自宅前
カンケリ・カクレンボ⇒弓場町三角広場
相撲⇒柳小学校砂場、近所の家の敷地
ドッツン⇒柳小学校1階ベランダ
オハジキ⇒小学校教室内

まだまだいろんな遊びがありました。
 

パン屋さん  投稿者:柳西中出身  投稿日:2008年 6月19日(木)23時53分32秒
   小学校の時、「マルクのパン」がリヤカーで回って来ていました。
まっかな荷台をおじさんが開けると引き出しの中にいろいろなパンが入っていました。とても美味しくて、いいにおい。冬休みに入る時(終業式)にはいつも全員にクリスマスケーキがマルクのパン屋さんから配られていました。給食費の中からか、PTA会費の中からかはわかりませんが、まるいバタークリームのケーキが白い箱に入って(直径10センチ位)大事に持って帰りました。
 もしかしたら、「マルクのパン」といっていたけれど,「マル久」のパンだったかもと、果物屋さんの書き込みを読んで思いました。
 

白蓮さんと門司港のパン屋さん  投稿者:歌う果物屋  投稿日:2008年 6月19日(木)23時16分39秒
  ■なんちゃって京女さんへ
あの跡地では、よく遊んでいましたが、そんなに広くはないですよね。
突然建物がくずれたと言うのが気になります。
戸ノ上市場の漬け物屋さんがダンスホールには詳しかったから、訊いてみますね。
それから、郵便局横の氷屋さんですが、都留さんだったのかも知れませんね。

今、門司高校の側にある「涼山亭」での食事会から帰ってきたところです。
ここは昔、「丸山山荘」と言って、田中絹代などの著名人が宿泊したところでもあります。
E君夫妻、ラジオ仲間の彦ちゃん、そして門司高校同窓会事務局の方とご一緒しました。
昼間、某新聞社の方から「山形さん、飯塚の伊藤伝右衛門さんの本邸では、朝ご飯はパン食だったんですよ。そのパンは、おそらく門司港の村上パンから取り寄せたものだと思われます」と電話を頂いた。
当時、飯塚近くでパン屋さんがあったのは、別府と門司港だったそうです。
その話を、門司高校同窓会事務局の方にしたら「私の父も戦前パン屋を経営していました。それで少し知っていますが、村上パンよりは久野パンの方が古いですよ」とのことです。
毎朝、おそらく国鉄でとりよせて、白蓮さんが食したパン。
「白蓮パン」として、門司港で売り出せるんじゃないかと思いました。
 

ダンスホールのこと  投稿者:なんちゃって京女  投稿日:2008年 6月19日(木)15時45分50秒
  この間門司に帰って母と昔話をしていたら、ガチョウ屋敷の裏手に某病院の兄弟でそのダンスホールを経営していたと言っていました。生バンドがはいっていてなかなか盛況だったらしい。母も懇意にしていたのでそこで踊ったことがあるとか言ってました・・がある日大きな音をたてて突然建物がくずれたそうです。母びっくり、急いで経営者を呼びに走ったそうです。原因はなーに?その跡地は長い間空き地でした。草ぼうぼうの。  

チェリオ  投稿者:歌う果物屋  投稿日:2008年 6月18日(水)22時36分28秒
  ■柳西中出身さんへ
へー、吃驚しました。
味園庵の若草映画館横時代の写真を見ると30名ほどの従業員がいます。
引き継いで、やってる方もおられるんですね。
娘さんに会った時に、話しておきます。

柳町郵便局の横にあった氷屋さんのことを掘衣料品店のおばちゃん訊ねたら、戦前、当のおばちゃんの店が、そこにあったそうです。
道を渡って、江口タバコ店の並びに都留氷店があり、柳市場にあった青柳の和菓子屋さんもその並びにあったと言ってました。
戦後、柳町郵便局の裏に「ダンスホール」があったんですね。

コックドールに行ったことを思い出しました。
その時のオーナーが、15年前くらいにメジャーデビューしたロックバンドのリーダーMさんのお母さんでした。
もう故人になられてますが、当店のお得意さんでした。
最初の経営者はMさんだと言うことです。

不老通りにある「不老の湯」が廃業しました。

若草映画館のオーナーであったT婦人が来店されたので、「開館当時、館内で空中ブランコをされてたと聞きましたが」と訊いたら、「うちの隣にサーカスの人が住んでいたのよ」と話してくれました。

同世代のお客さんにセブンアップの話をすると「50円のチェリオを飲んでた」と言う方が多かったです。
 

セブンアップ  投稿者:柳西中出身  投稿日:2008年 6月17日(火)23時18分51秒
   セブンアップを「すき焼き」にいれるとお肉がやわらかくなって美味しいと聞いてためしたことがあります。
 今から、十三年前くらいに、味園庵の看板を今住んでいる街で発見。書体の感じといい、店構えといい門司にあったお店と関係があるのではないかと、やっと決心して(家族を誘ったのですが)一人で、二年前に行きうどんを食べ、確信しました。味が同じでなつかしく、お店の方に、尋ねましたら、昔、門司のお店で働いていた方でした。暖簾分けしてもらったそうです。ご主人、奥さん、従業員さん(?)と話に花を咲かせました。
 お寿司もおいしそうでした。一人テンションが上がって、家に帰って主人と子供に話しましたが、「良かったね」の一言でした。門司の人にしかワカラナイノネと思いました。
 また来ますといって店を出ましたがあれから行っていません。
今度、お寿司をたべようかと思ったりしています。
 

リボンコーラ  投稿者:歌う果物屋  投稿日:2008年 6月17日(火)21時26分33秒
  ■seamoonさんへ
僕も最初、そう打ち込みしながら、確信がなくてひらがなにしました。
どうも、ありがとうございます。
その娘さんとは、今も親交があるので、当時の写真やら見せて貰いました。
最初は不老通りに、そして駅前に移転したんですね。
店内は、モダンなレストランみたいでした。
ちなみに、区役所横で食堂を経営していたのが、彼女です。
味園庵の味を受け継いでいたそうです。
当店では、その出汁を販売していました。

■なんちゃって京女さんへ
香港飯店開業当時は、大里で本格的な中華料理屋さんでしたね。
「ひつじ屋」さんもあったけど、雰囲気が「中華レストラン」って、高級感がありました。
「ぶんえん」は知りませんね。
品ちゃんに訊いてみますね。
みつわ会館は学生時代、よく行ってました。
そうそう、中に、おばちゃんがいましたよね。
台の傾斜で入り方が違うって。
出過ぎると、中で、その傾斜を調節していたなんて噂していましたね。
そのパチンコも「777」なんてものが出だしてから、やめちゃいました。
あの頃は、打ち止めで5000円くらいで、勝つと富士屋で友人達におごったものです。
卓球場は、パチンコ屋さんの駅側にあったと記憶しています。

さて、今日は元サッポロビールにお勤めだった方に当時の話を伺ったのですが、
知らなかったのが「リボンコーラ」。
小学校の時の工場見学の最後にスターホールと言うところで、「リボンシトロン」とかを飲んだ記憶があるのですが、コーラは全く知りませんでした。
炭酸飲料では土器さんの会社の「セブンアップ」ってのもありましたね。
 

なつかしのコックドール  投稿者:なんちゃって京女  投稿日:2008年 6月17日(火)16時02分50秒
  大里でおいしい洋食屋さんでしたよね。近くで外食ていったらコックドールかその並びにあった中華料理屋さん(香港飯店?)でした。コーンポタージュスープなんかめっちゃおいしかったし一階のカウンターの中でネルドリップコーヒーをたてていましたよ肩の高さからお湯を細くゆっくり注いで・・・子供の頃はコーヒーは飲まなかったけど絶対おいしかったと思う。柳町商店街にあった(ぶんえん?)という喫茶店のプリンアラモードも大好きでした
ところでみつわ会館てパチンコやさんでしたよね。父が子供の私をよく連れて行ったものでした当時は台の後ろに玉を出す女の人がいて「玉が出んぞー」てあちらこちらから声がかかるとそのつどひょっこり顔だして「はーい」と処理していました。父親似の私を「いやーおとうさんそっくりやねー」っておしゃべりしつつ・・なんかのどかなパチンコやでした。そのあとは卓球場になったよね。
 

以上は、新着順1番目から50番目までの記事です。 1  2  3  4  5  6  |  《前のページ |  次のページ》 
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